2012年9月7日金曜日
憂鬱な思い出
先日の飲み会で高校生の時、何を読んでいたかという話題があった。
そのとき、中学1年生のときの作文のことが思い出された。
題して、「ものぐさ太郎のすすめ」。自分で言うのもあれだが、それなりだったと思う。
それで、さらに、中学時代のことを思い出した。
中2のときの作文が自殺について。要は、自殺なんかするんじゃない、という趣旨。
これを皆の前で読まされたのはちょっと参った。
もっとある。将来の職業も学級内で発表させられたが、「山の中に引き籠もる。金がなくなれば、山から降りて土方をする」というもの。
当時の友達と、後に、社会人になって初めて会ったときの、開口一番。「おまえ、まともになったな。」
あの頃は、圧倒的な厭世観に襲われていた。人生の中でも最も憂鬱なときでもあった。
いじめでもなければ、貧困でもない。学力不振でもない。
単純に、文明に依存せざる得ない自分を自覚して、深く深く、自分を忌避する気持ちが強かったのである。
日常生活をとりまく、すべてのもの、それを支える文明が、ひどく、自己本位で、その文明に内在する原罪というものを感じながら、それを避けては生存することすらできない自分が嫌だった。
まとな人間であれば、こういう感情から、社会運動とか、新たな技術開発とかに走るのかもしれないが、そこは「ものぐさ太郎」である。
高校1年生の頃に、宗教に走ることになる。所詮、斜め読みした程度なのだが、その時、思ったのは、結局、「自分が教祖にならなければ解決しない」ということ。
高校出たら、働いて、独学しようと思っていた。もっと言うと、大学なんかに行かなくても、学問は独学できると思っていた。何とも不遜である。
だが、自分と対峙していたのは、そこまで。
後は、皆が大学行くなら大学でも行ってみるか。文系は独学できるし(本当は記憶力が悪いので点数がとれなかったのだが)、実験だと独学できないから、理系にしよう。
今振り返れば、そこで終わっていたとも言える。この4,5年の間の感情は、澱のように底に沈んでしまっているが、消えているわけでもない。
時々、ひょいと disturb されてしまうことがある。
こういうときは、朝からゆううつなのだよ、きみ。
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